戦後の大きな変化といえば、何と言っても東京オリンピックです。駅前のバラックが、道路拡張により、主な店は「代々木会館」に入店。駅前拡張、下水道整備が行われ、水洗便所が普及し、商店街も街路灯を建設しました。
昭和32年、鳩森小学校のPTAの活動により、代々木千駄ヶ谷地区は文教地区となり、予備校を中心に各種学校が増え始め、代々木のもう一つの顔を形成。学生目当ての飲食店も増えてきましたが、阿波踊り大会を数回開催するも、商店街全体の活動を盛り上げるのは難しくなってきました。
昭和52年12月、緑公園の中の学童館跡を、集会施設として自主管理できることになり、理事会開催の場所が確保されました。
昭和60年、都庁移転の決定により、土地の急騰が起こり、地上げによって、代々木は住宅が急減。生鮮三品を中心とした商店街の業態は、変革を余儀なくされたのです。
「代々木千駄ヶ谷プロジェクト」設立。「千代通り開発組合」設立。
昭和64年、昭和天皇崩御。平成元年、消費税導入。
新宿駅周辺の開発が進み、新宿はすっかり様変わりしましたが、代々木は、ある意味で取り残された地域となってしまいました。バブル崩壊で、ビルの空き室増加、駅前銀行の撤退・・・、代々木は日本の縮図のようでもあります。
逆風は、今も吹き続けています。けれど、「代々木商店街振興組合」は、どっこい生き続けます。頑張ります。商店街のあるべき姿を模索し続けながら。